モニタリング / Monitoring

田 凱 / Den Gai

モニタリング / Monitoring

2022.5.10 (tue) – 5.22 (sun)

Open 12:00 – 19:00 Close Mondays

パノプティコンを現代社会の図式に当てはめるのもクリシェになった。ミシェール・フーコーは、規律社会とその主たる見せしめ手法である懲罰メカニズム(監獄だけでなく、病院、学校、工場、兵舎も含まれる)を気付かせてくれた思想家とされる。旧時代は、君主の権威を挑発した犯人に身体への刑罰を与える。君主は統治の合法性を強いて刑罰現場を公開し、すさまじいカーニバルとさせる。狙い通り、偏執に出現する人間像は、独自な思考なしで命令と秩序に従う兵士、教科書を棒読みする生徒、身体を働かせ最大限に労働価値を絞り出す労働者。思考停止、疑わない。しかし、フーコーの言説が究極的なのは、規律社会とは私たちがそこから脱却しようとしている社会構造で、20年代を生きる私たちともはや無縁だということ。だが、規律社会から脱去したが、管理社会に足を踏み入れた。管理社会は監視によって発動するのではなく、即席なコミュニケーションによっての状況把握と、知らず識らずに管理統制。見えない監視者がどこかで見てることから、外的な懲罰が内在化された。規律社会では、公開処罰の対象は犯人ではなく民だ、管理社会は管理者も被管理者も市民だから、より効率的な制度である。SNSの普及によりそれがさらに容易になったとはかれる。SNSの環境は不特定者によるコメント/評価で、個々のユーザーを連帯としてまとまらず、個人がより分離的、排他的になった。だが、現在のSNSの利用者はそれを知っている、もはや見られている事を意識して発信するのが常になった。監視されるから、不自由ではなく、監視されるからこそ、やっている。ネット環境は、言説に還元できない非言説的出来事で満ち溢れたスペクタル空間になった、それが現実権力空間の延長でほかならない。不特定者に凝視される空間は、自意識のある発信はあるのでしょうか、知らず識らずに同質な情報の受容体になってしまう。さてと、適度に連結を切断する事を提案したいが、だいたい手に握る携帯は置いておけないし、ネットに接続されることは、あなたの許可が不要。