Charanga

甲斐啓二郎 / Keijiro Kai

Charanga

2019.5.14 (tue) – 5.26 (sun)

Open 12:00 – 19:00 Closed Mondays


 毎年5月3日、聖十字祭の日にボリビアのマチャで行われるTinkuを撮影したものである。Tinkuとはケチュア語で「出会い」を意味し、各集落の男達が力を競い合うケンカ祭りであり、男女の出会いの場でもあった。地元の老人によると、インカ帝国以前にはすでに行われていたとのことだ。
 マチャ周辺の各集落が、ケーナやチャランゴといった民族楽器で音楽を奏で、歌い、踊る。「僕らは醜くなんかない」と歌っていた時、彼らが味わった歴史を考えずにはいられない。そうして、広場を練り歩き、他の集落とぶつかった時、素手での殴り合いが始まる。死者が出ることもあるという程の激しいケンカ祭りである。血が流れるまで殴り合い、その血を母なる大地の神パチャママ(Pachamama)に捧げ、豊作を祈るのである。

 今まで撮影した格闘の祭事で、偶発的におこる素手での殴り合いは目にしてきた。素手で顔面を殴るという行為は、祭事のルールとして禁止されていなくても、人の倫理としてそうそう起こるものではなかった。ただ、Tinkuに関しては「殴る」という行為がルールである。また、殴られることによって血を流す事が良しとされる。血を流す事が目的のひとつであるために、血が出やすい顔面を殴るという事をしているのかとさえ思う。
それは倫理以前の人間の姿を見るようで、今まで撮影してきた格闘の祭事の中で、Tinkuは最も恐怖を感じた。

どの祭事においても、参加する者に何故闘うのか?と問うてもあまり意味がない。「それがそこにあるから」という様な答えが返ってくるだけだ。他の祭事での話になるが、会話の中で興味深い言葉があった。季節感(風向きや日差しなど)や街の喧騒などの情感で、そろそろ祭りが来るなと思うそうである。まるで祭りの方から向かってくる様な言い回しで。
祭事は、先人たちの霊魂、神そして自然の様々な精霊たちとの対話の場である。「祭事」を「自然」もしくは「神」と置き換えて、「向かってくるもの」と考えると、「格闘の祭事」は「自然の猛威」とみる事も出来る。「自然の猛威」が差し迫った時、我々人間はその困難に立ち向かい必死に生きようとするだろう。何しろ自分の生死、実存の問題であるのだから。
 先に「倫理以前の人間」と書いたが、この困難や恐怖を乗り越えた時、まさにその瞬間、我々人間は
倫理や道徳を手に入れてきたのではないか。もしそうであるならば、「格闘の祭事」は、“人間たらしめる生きるための闘い”である。
Tinkuの中で歌われていた「僕らは醜くなんかない」という詩は、スペイン占領時代を歌ったものと考えられるが、彼らは流れる血をみて、自己の生を実感したに違いない。
それが得られる場、その実践的経験の場が、この祭事であり、先人達の知であり、自然や神からの恵みなのかも知れない。

*—”Charanga”は、スペイン語で「吹奏楽団」や「どんちゃん騒ぎ」を意味する。民族楽器チャランゴ(charango)の語源ともなっている。

甲斐啓二郎